「自然は無限で不変のものである。人間ごときが傷つけられるものではない」。多かれ少なかれ私たちは漠然とこう感じている。特に広大な自然に接することの多い山ヤ・沢ヤにとっては、自分たち人間が非常にちっぽけに感じられるほどのスケ-ルの違いを感じることも多い。
「自然」というものの範囲をどのように捉えるかによっても違ってくるが、確かに私たち人間が何らかの要因で滅んだ後でも、地球上の自然の営みは気の遠くなるような時のかなたまで続いていくに違いない。
が、私たち人間を含む生物達の目(時間の尺度、環境)からみると、これは全然正しくない(と思う)。かつて、ある孤島に生息していたイワサザイという鳥が、灯台守の持ち込んだたった1匹の猫によって絶滅してしまったという話がある。アメリカの空を一時は覆うばかりに群れ飛んでいたリョコウバトが狩猟によって、あっと言う間に絶滅したのもよく持ち出される事例である。このような歴史的な「事件」を持ち出すまでもなく、生物の絶滅は現在、年に4万種(1日になんと11O種!)という恐ろしいスピードで進行し、そのほとんどすべてが人為的な原因によっているのだ。生物の「種」というものが、何億年もかけてゆっくりゆっくり進化してきた結果であることを考えると、これは実に恐ろしいことだと思う。
で、本題。沢ヤには二つの面があると思う。自然の中に分け入り、無意識的に自然に影響を及ぼしてしまう自然の破壊者としての面。そして、だれよりも沢の自然に接し、それを他の人に伝えるという自然の代弁者としての面。
前者については・自然与える影響を軽減することは可能だ。要はなるべく人間界の物質を「沢」という環境に持ち込まないことである。プラスチック、金属,食べ物は、原則的には持ち帰ることが望ましい。排池物だって、そのうち持ち帰る時代になるかもしれない。(ただし、山菜などの山の幸を食べたあとの排泄物は、例外かもしれない。この場合は、「沢」という系の中での物質の収支には影響を与えないからだ。)いつだったか「山渓」の自然保獲の特集で「登山靴についた泥も、その都度とるようにしましよう。以前登った山の種子を持ち込んでしまい、生態系に影響を与えることも考えられるからです」と書いてあった。これはちと神経質のような気もするが、大切な視点ではある。
どんなに注意していても、山ヤが山に登るとき、沢ヤが沢に入るとき、環境に与える影響がゼロだということはありえない。だからといって厳正自然保護を名目に、山ヤ、沢ヤを山から安易に閉め出してしまったら、自然と人間の接点が失われ、いつしか「なぜ保護するのか」ということさえ見失ってしまうことも考えられる。自然を(多少)壊しながら山に分け入る私たち(そして自然から時に手痛いしっぺ返しを受ける私たち)こそが、自然の価値を一番知っているのではないだろうか。
「エコツーリズム」とか「グリーンツーリズム」いう言葉がある。従来のデラックスホテル滞在型の団体旅行・観光名所めぐり的な短期の旅行に対する概念で。地域の自然や文化とより深くふれあい、学ぶ旅行のことだ。国際自然保護連合(IUCN)の定義によると、①保護地域のための資金を生み出し、②地域社会の雇用機会を創出し、③自然にふれあうことによって自然保護に貢献するような観光ということになる。農水省のグリーンツーリズム研究会の報告の中では、グリーン・ツーリズムは大規模な開発は行わず地域資源を最大限に活用し、心のふれあい等人的交流を重視し、農山漁村の自然や社会を育てるものとして、その推進を提唱している。日本各地で、スキー場やゴルフ場などの大型リゾートに替わる、地域の個性的な自然を生かしたリゾート、ツーリズムのあり方が模索されている(小笠原村のホエールウォッチング、山形県朝日町「エコミュージアム構想」、熊本県「阿蘇グリーンストック」など)。特徴的なのはこれらは「地域おこし」の二ューバージョンとして提唱されていることである。
さて、沢のぼりや登山が、こうした「エコツーリズム」と結びつくだろうか。まあ、あまりに自然のみを対象にした旅であり、地元にめったにお金が落ちないという意味では、なかなか難しいところではある。しかし自然本来の姿を楽しむ「自然志向型」の旅であることは間違いない。大型のハードウェアに頼らない、簡素なスタイルであることも要件を満たしている。もちろん団体旅行でもない(最近は旅行会社が企画しているツアーもあるようだが)。
というわけで、これらのことを勘案して、私は大胆にも「地域にやさしい沢人宣言」なるものを考えてみた(たしか近畿日本ツーリストが「地球にやさしい旅人宜言」というのをつくっている。その真似である)。
一、沢にモノを持ち込まい(基本的には持ち帰る)
ニ、乱獲を避ける
三、地元の自然や文化に親しむ:地元の産物を食べる、地酒を飲む、温泉入る、みやげを買う、できれば民宿に泊まる
四、人エ建設物(ダムとか林道、リゾート施設)の現状・計画に関心を払う
四は、いままでの議論の流れから言うとやや異質に思えるかもしれない。また、単なる都会から来た「異邦人」にすぎない私たちが、地域の開発問題を云々することに、引け目やアブなさを感じるかもしれない。が、これはあくまでケース・バイ・ケースである。村ぐるみでダムの建設反対を貫いている場合もあるし、建設の賛成派と反対派が対立している湯合もある。ただ、自然からさんざん恩恵を受けている私たちにとって、少なくとも客観的な立場から「今、○○の林道の周辺はこうなっている」などと発言することは、他に人の目に蝕れる機会の少ない場所ならなおさら、必要なことなのかもしれない。(み)