山をはじめてもうかれこれ20年近くになる。20年もやっていれば嗜好やスタイルなどが変わってもよさそうなものであるが、何故か全く変わっていない。山をはじめた年の冬に山スキーに手をだし次のシーズンには沢に入っていた。
当時住んでいた金沢のまわりにはいい山が近場にあった。スキーと沢、このふたつがあれば道がないそれらの山々へも行くことができたからだろうか。スキーなどは生まれて初めてだったので滑れるはずもなくただワカン代わりの代物だったが、それでも雪が積もって天気がいい日など講義をサボりいそいそと裏山へ出かけていったものだ。
まわりが北アや南アと騒いでいても、加越国境から白山、犀奥、庄川流域の山に通っていた。あのあたりの山はひたすらに深く現代では都市から隔絶しているが昔は人々の生活と繋がっていた山々、それまでの18年間を大阪で過ごしてきた者にとってはそこは衝撃的な世界であった。
変わらないものと変わったもの。当然、変わったものもある。脚半と地下足袋にわらじはウェディングシューズに。ザイルや登攀具は使うようになった。山スキーは滑れるようになった。釣りも少しはうまくなった。きのこに手を出すようになった。登山道を登ることはほとんどなくなった。稜線の上にいるよりも山深いところに居るのが好きになった。真夏のギンギンギラギラの稜線と下山したときの煩いぐらいのセミの声。それよりも新緑と紅葉の頃の沢がこの上もなく好きになった。沢は新緑の5月6月と紅葉の9月後半から10月が一番いい。山菜ときのこのシーズンでもあるし山が一番美しい季節だ。その時期に山深く入っていく。
高い山より深い山。アルピニズムに無関係の裏山主義。このあたりはやはり変わっていない。
長く沢をやっていると、魂に響くような沢もあれば、心に沁みるような沢にも出会う。でも最近は魂に響くような厳しい「沢登り」は年に1回か2回でいいと思っている。毎週のように山に行っているとそんなに緊張感は持続しないのである。あとは好きな山域の山やまだ入ったことのない遠くの山の深くまで入っていきたいと思っている。道はないだろうから沢から入り沢か踏み跡から降りてくるのだろうから、傍から見れば「またマイナーなところへ」と言われるような「沢登り」なのだろうけど、これは「沢登り」とは違うものなのだと自分では思っている。「沢登り」ではなく深く山に入るために沢を行く。沢は山へ深く入るための手段だと考えるようになった。
そんなふうに山に入っていると自然と木々に目がいき、最近は木の名前も覚えるようになった。木が同定できるようになると美しいと思っていた山は実は木々のバランスがいい山だったんだと今さらに気がついた。自然そのものが微妙なバランスで成り立っていてそのものが自然なんだと知識としては知っていたが、改めて経験から痛感した次第である。
あと何年山に行けるかわからないが山の嗜好性はまだまだ変わりそうもないようだ。(ち)