細尾峠

 もうかれこれ10年ぐらい昔の話である。

雪に閉ざされた峠の小屋で冬篭りしている老夫婦がいるというので、二人で訪ねて行ったことがある。

そのころは金沢に住んでいて、飲み屋で相方からその話を聞いたときは半分以上信じてはいなかった。場所が場所である。老夫婦が篭っているというのは、あの合掌作りで有名な豪雪地帯の越中五箇山の集落からさらに上の細尾峠という峠の茶屋である。もちろん除雪などされていない旧道の峠の一軒家である。電気も電話もない。年末、雪に閉ざされたら連休前の雪解けまで閉ざされたままの世界である。どうしてその老夫婦が冬は下界に降りてこないかは知らないが、大阪から移り住んで地方の生活にようやく慣れたつもりでいた私にとって、この話は想像を超えて非常に興味深く思えた。

結果的に訪ねて行った日は、その年で一番の吹雪の日になった。

高岡から城端線に乗り換えるころから雪になった。城端に着いたころに本降りになり、除雪の途切れから雪の上によじ登るころには吹雪になっていた。スキーを履いてもひざ上のラッセル。雪は容赦なく顔に吹きつける。

その当時の記録ではこう書いている。視界は1mもないし、ストックでスキーの先のシュリンゲを引っ掛けて雪の上に出し、それを繰り返して一歩一歩進んでいくという、地の底で強制労働をさせられているような有り様だった。それがどれぐらいの雪の量かというと、スキーを脱ぐと身体がすっぽり雪に埋まってしまうので、腰を降ろすところを固めてツェルトを上に張ると竪穴式雪洞ができてしまうという、まぁそれぐらいの雪の量である。
そんなことを繰り返し、峠のトンネルを越えたところに住んでいるという爺さんと婆さんに吹雪の中、会いに行ったのである。

そんな時だった。左から何か強い力が私の身体を押し倒した。何が起こったのかわからなかった。視界はフードで前方だけ。それが雪崩とわかるまでだいぶ時間がかかった。あわてて口元を確保した。おさまって顔を上げてみると、ちょうど首から上だけが出ていた。そして自分が口元を確保するために腕を上げた跡が雪面に残っていた。要するに、あわてて口元を確保したつもりだったが、それはもうおさまった後だったらしい。

雪崩に流された経験は未だかつてこの時だけだ。それは面発生の表層雪崩で5m×5m程のごく小さな雪崩だったが、それでも雪に埋まった首から下はどんなに力んでも動かなかった。まるで鋳型にはまったように。
峠のトンネルは雪の壁の上部に1m程の口を置けていた。その開いた口まで登りトンネル内部の暗い空間へ屈みこんで滑り降りた。先は見えないがスロープの先は当然のことながらアイスバーンでとんでもなく痛い転倒をする。トンネルの中はすべてが凍った冷凍庫だ。老夫婦がいなければここでビバークか、と思いながら反対側の出口へ向けてスロープを登った。

そんなこんなで、5時間近くかけてやっと辿りついた小屋は完全に雪に埋まっていた。それでも雪の上から戸口の隙間へ降りて戸を叩き続けていると、果たして爺さんが出てきたではないか。こちらも驚いたが爺さんのほうもかなり驚いたらしい。帰る際に聞いたのだが、最初はタヌキが化けてきたかと思ったそうだ。何でもこの春に裏の小さな畑を荒らしに来ていたタヌキを罠で捕まえて、檻に入れて自分の飲んでいる酒を無理矢理飲ますとタヌキが踊るので、これが本当のタヌキ踊りだわいとおもしろがっていたのだが、タヌキはそのまま死んでしまったのだそうだ。どうやらタヌキは踊っていたのではなく、もがき苦しんでいたらしい。そしてもがき続けて死んだ。タヌキの怨念である。もちろんタヌキは汁にして食ったそうだ。そんなことがあって、真冬の猛吹雪の中の珍客である。昔話なら状況的に我々は完璧なタヌキである。そういえば、腰が曲がっているわけでもないのに、後ろに回された爺さんの手には何かが握られていたのだろうか。

この爺さんというのがかなりの偏屈で(そもそもこの時期にこんな所に篭っているだけで十分偏屈なのだが)、朝飯はゆで卵に酒、昼は抜き、夜はうどんに酒で、酒を飲みながらソ連の極東放送を聴き、ブツブツと物申しているのである。雪のない時期はない時で下界に降りては問題を起こし、警察に議論(というか難癖)を吹きかけているらしい。たぶん下界は爺さんの時代ではないのだろう。

閉塞した空間にこんなのと4ヶ月も一緒にいたら気が狂いそうだが、婆さんは平気のへの字で、無視でも諦めでもなく、何か信頼しあっているものが見えたりするのである。なるほど夫婦というのはこういうものなのかと若かった私は変に感心もしたりしたが、そんな小屋で我々はただ暖かい空間と温かいうどんと酒を振る舞われて、爺さんの熱弁を聞いていたのである。

あれからかれこれ10年近く経った。雪が解けたらうどんでも食いに行くか、と思いながらそのまま金沢を離れてしまった。今はもうあの爺さんも他界されただろう。小屋もなくなってしまったかもしれない。

最近気付いたのだが、私はどうやらあんな爺さんになりたいと思っているらしい。(ち)

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