奥利根湖の湖岸道に「見返り峠」という峠がある。矢木沢ダムの完成が昭和42年なので左岸につけられたこの湖岸道と見返り峠は古の人々が行きかった峠ではなく、利根川の源流域に入るためにつけられたものなのだろうか。現在は船でのアプローチが可能となったため湖岸道は荒れ果てている。ダム湖がない時代、奥利根の源流域に向かった先達たちはみなこの峠を越え源流域に向かっていったのだろう。
この夏、満水状態の奥利根湖の渡渉点を探すために湖岸のヤブを漕いでいたら、ひょっこりとこの「見返り峠」に出た。小泉氏の「奥利根の山と谷」の写真で見慣れた景色が目の前にあった。
先達たちはこの峠でどういう思いで何を見返ったのだろう。山を越えてしまえば帰りは通らぬ峠。おそらく見返ったのは行きではなく帰りであろう。まだ記録の少ない山域を探索してその成果を感慨深くふり返っていたのか、それとも何かのアクシデトで撤退を余儀なくされ忸怩たる思いで山を見返っていたのだろうか。
我々のこの夏は後者であった。O氏とともに昨年に引き続き奥利根の横断を試みたが「バックウォーター」と「ヤブ」と「悪天」に阻まれ見返り峠から1日かけて山越えしてきた沢にエスケープルートを求めざるを得なかった。
そしてせめて最後の夜ぐらいはと、ブナの平にまったりとした焚き火で疲れを癒した。
焚き火を肴にちびちびと明るいうちからやりはじめ、焚き火の脇のブナにあった切り付けの話などをする。
![]() |
2005/08/14 奥利根:矢種沢~割沢左岸支流下降 |
その切り付けには「明治12年」とあった。明治12年といえば西暦で1879年。今から120年以上も前だ。やはり猟師だろうか。その沢は両岸壁だらけで熊を追い上げるには向いているようには思えないがカモシカだろうか。それとも熊を狩るには尾根へ追い上げるだけでなく他の猟法もあったのか。
名前は切り付けが拡がってしまって読みとれないが、「越後国中魚沼郡」の文字は読み取れた。そのころの中魚沼郡は今の津南のあたりだそうだ。彼はそのあたりから魚野川へ越えて登川右岸からコツナギ沢へ入り奈良沢を下って本流に出たのだろう。そんなルートが自然と頭に思い浮かんできた。
今は湖底に沈んでしまった湯の花温泉をベースにしたのだろうか。温泉の沸く粗末な小屋に泊まり狩りに出かけていったのか。しかし調べてみると湯の花温泉が発見され、小屋ができたのは大正の初期らしい。だとしたら、まだ世間に知られていない温泉を彼は知っていたのだろうか。
なんだか彼の辿ったルートと彼の日常の生活と彼の時代の奥利根の風景を想像するだけでワクワクして楽しい。
「楽しかっただろうなぁ」とO氏に言ってみると「生活がかかっていたんだからそんなことはないでしょう」と返された。ごもっともである。
夏合宿の最後の夜は彼の時代の奥利根をあれこれ想像しながら眠ってしまった。
彼の時代の山へ行くことは叶わないが、沢から山へ入り、彼の時代の生活の片鱗に触れ彼の時代の山を想像してみることはできる。それが「切り付け」でなくとも、その時代に山で生きた人々の生活を感じられるもの。鉱山の跡。山菜小屋。廃村。道の跡。そういったものに出合い、その時代に思いを馳せるのも沢から山へ入っている我々の楽しみのひとつだと再認識した一夜だった。(ち)